トップページ > 特集記事

特集記事

サイト開設記念連載企画 講師誕生!人はいかにして「教える人」となるのか

高取剛充さん(有限会社ネイチャーワークス代表 写真家/NLPコーチ ) その1

サイト開設を記念し、連載スタートした<講師誕生~人はいかにして「教える人」になるのか>の第3回目。

<講師誕生~人はいかにして「教える人」になるのか>の第8回目。今回からは、登山家・写真家にして、研修講師・ファシリテーターとしても活躍する、高取剛充さんにお話をうかがいます。

登山家として極限の世界の中に身を置いてきた高取さんだから語れる、独自の人生観や人間観を、じっくり味わっていただければと思います。(インタビュアー・根本英明)

高取剛充(たかとりよしみつ)さん

高取剛充(たかとりよしみつ)さんプロフィール

1959年生まれ。法政大学経営学部卒。体育会山岳部に在籍中、それまでのヒマラヤ登山の主流だったOB主導のスタイルを変更し、学生主導のチームを編成、隊長としてカラコルム・トランゴ I 峰に遠征。就職はせず、穂高連峰山麓の山小屋の番人となり、国立公園の天然森に隠る。4年間、日本を代表する山岳写真家白旗史朗氏の撮影助手を勤め、プロフェッショナルの仕事作法を学ぶ。その間カラコルム全域を440日間かけて踏破、バルトロ、バツーラ、シアチェンなどの氷河を歩き、K2登山隊の撮影班としても活動する。1989年、写真家として独立。2000年、チョモランマ登山隊に参加し、世界最高齢登頂記録を撮影。ナショナルジオグラフィック日本語版に掲載される。最高到達標高7400m。夢を持つことの重要性や、遠征登山というプロジェクトのマネジメント、成功の可否を握る人間関係などについて考える事多く、帰国後、有限会社ネイチャーワークスを設立。スポーツ指導と組織開発、人材開発に専門分野を拡張する。東京都山岳連盟、日本山岳協会、日本キャンプ協会等にて登山技術研修講師を行う一方、能力開発とコミュニケーションに関わる研修にて資格を取得。研修会社数社での講師、ファシリテーターを経て、現在、アドベンチャー教育とNLPを取り入れた、独自のカリキュラムによる企業研修を行っている。目指しているところは「人と人とが活かしあう社会」。

原点となったボーイスカウト体験原点となったボーイスカウト体験

子どものころの住まいは東京の西麻布です。父は会社を経営していました。九州、佐賀県唐津の杵島炭鉱です。曽祖父(高取伊好)は炭鉱王の名を成した実業家でした。今は曽祖父の建てた旧高取家が国の重要指定文化財になっています。

父は3代目ですが、戦争から帰ってくると、すでに炭鉱は斜陽になりかけていて、石油の時代になろうとしていました。結局、炭鉱は父の代で処分してしまいました。当時の父親は大体そうだと思いますが、大正生まれで、頭ごなしに説教をこんこんと垂れる人。子どもに「そこへ直れ」というんです(笑)。「お前の意見を言え」というけど、とても言えないような雰囲気でした。

大人しい子どもでしたが、少年期は地域のボーイスカウト活動をしていました。学校は小学校から高校まで学習院。私立に通っていたので地元にはあまり友達がいず、親が気をきかせたのだと思います。親も自然が好きだったのかもしれないですね。どうやら、父は僕を将来経営者にしたかったようです。たくましく育ってほしかったのでしょう。ボーイスカウトは地域の友達が多く、友達の友達ともつながりができて仲良くなって、楽しかった。都会でも近所にザリガニを捕りに行ったり、のんびりしていましたね。そういう意味では、今の子供と違って自由があったと思います。子供は外に遊びに行きなさいと言われていた時代です。

ボーイスカウトは、中学生の時が一番面白かった。自分たちでキャンプに勝手に行ってきなさいと指導者から言われます。そうすると、道具は何が必要か、どこに行くか、交通費や予算は、食費や献立は何を食べるか、自分たちで計画書を出す。そういうことをやっている時が面白くて。いま僕は野外研修などでチームビルディングをテーマにしていますが、そこにつながるような体験だったかもしれません。

小学校3年生で入隊し、5年生で班長になる。6~8人で1個の班が作られ、それが何班かあって一個隊の形になります。卒業すると今度は、6年生~中学3年生の間で、もう1度下の班員から班長になるまでやるのです。高校になるとまた下から上へと、フォロワーシップからリーダーシップを体験できる。チームの長になって偉そうな顔をしていると翌年から薪拾い。1学年上になるとすごく怖い先輩がいるわけです。そうするうちに、ステップアップして自分のやりたいことがだんだんとできるようになる。いい体験でした。

初めての山で命の危険にさらされる初めての山で命の危険にさらされる

高校入学時に山岳部に入りました。中学で友達と一緒のキャンプ体験が楽しかったので、自分の取柄はそれくらいかな、と思いました。ですが、残念なことに、1年生の夏に新任の顧問の先生が、夏の穂高に行って落下して亡くなってしまった。それまで顧問だった先生が継続してくださいましたが、あまり活動ができない状態でした。

浪人してから法政大学に入学。学習院は小中高と12年いたので、顔ぶれが変わらず、環境を変えたくて大学の進路は変えました。父は慶応卒、兄も慶応。父の要望は最低でもそのレベルでした。学習院を出て受験するという表面的な利害は一致していましたが、でも僕は全然勉強しなかった(笑)。何も目指していなかった。

山岳部に入部しましたが、1年生の年は入部していません。浪人して大学に入ったときは体力的に自信がなかったので、体育会に入らなかったのです。父の知り合いに沖縄でダイビングスクールを開いている方がいて、「沖縄に来ないか」と誘われて、ひと夏石垣島でアルバイトしていました。その方には本当に可愛がっていただき、後に仲人もしていただきました。ライセンスも何もないんですが、泳げるというだけでシュノーケリングのインストラクターとして教えていました。

今はだいぶ開発されているようですが、当時は石垣島の底地(すくじ)ビーチにはそこしかスクールがなく、プライベートビーチのように、海を満喫していました。大きな自然の良さに目覚めて、より大きな自然へ向かう志向性が当時からありました。

2年生から山岳部に入っています。最初は高いところや危険なところの山登りがしたかったわけではなくて、「どこに行っても生き延びることができる人になりたい」と思っていました。いろんなところに旅がしたかった。日本の冬山で生き残れれば世界中で生き残れるのではないかと思ったのが、志望の動機です。

山岳部は部員が少なく、キャプテンは少数精鋭主義と言っていました。「やる気のない奴は入れない」と言って。とてもいい先輩だった。

ところが入ってすぐに、僕が事故を起こしてしまいました。

4月に入部すると、5月連休ごろに初めて山に行きます。先輩は新人も連れて行ってやろうと言っていました。しかし5月といってもまだ雪がありますから、山は冬同然です。道具が使えなくてはいけない。僕と同期が一人いたんですが、練習が足りず、結局直前になって「2人は連れて行けない」と言われました。

僕は非常に楽しみにしていたので、怒りました。「そんなことなら、先輩と一緒じゃなくていい、俺一人で行く」と言って、山の雑誌を見て八ヶ岳に勝手に一人で行ったんです。

登山のトレーニングも受けていないのに、友達のピッケルを借りて行きました。使い方も知らなくて。無謀ですよね。単独登山した結果、地面が凍っている場所を歩いて渡ろうとしたときに滑って、ピッケルが体を刺しました。 これは大変だと、近くを通った登山者に荷物を持ってもらって、山小屋までようやく歩き「ヘリを呼んでくれ」と言ったら天候が悪くて呼べないという。やむなく自分で降りることにして、荷物は預かってもらい一人で下山しました。

僕にとってはこの出来事は結構インパクトのある、人生の転機でした。けがをして麓へ歩いて行く途中、体の外には出ないけどだいぶ内出血していたらしいです。中では腎臓が真っ二つに割れていて、手術で摘出したほどの重傷でした。歩く途中、そのうち意識がフワーっと遠くなる。だんだん気持ちよく、眠くなって、これは寝てはまずいと思った。道を歩いている人からは「どうしたんですか」「顔が真っ青ですよ」とものすごく心配される。「急いで降りなくちゃ」と意識を奮い立たせました。麓の渋温泉の宿の玄関に倒れこんで、「すみません、救急車を呼んでください」。女将さんが慌てて毛布をかけてくれて、運ばれて行きました。

命の危険の中で感じた「世界とのつながり」命の危険の中で感じた「世界とのつながり」

八ヶ岳登山には自分で行きたいと思って行ったわけです。それまで恵まれた環境の中で育ってきて、生きることに追い込まれたことがない。「何で生きているんだろう」「何で勉強しなくちゃならないのだろう」と青臭く頭で考えていた。

ですが、そのとき本当に命が危なかったことで、体の芯から「生きよう」という意欲が自分から出るのを感じました。しかもそれが自分の体だけではなくて、周りの木や山、空気から、自然が自分の足の裏を通って体に入ってくる。そういう感覚があって、すごく感動したんですよね。自分には生きようという力がある。それが自分独りじゃなく、周りの他の命と一緒だと。自然のあらゆる命と自分は同じだと思った。そこで自分と世界が初めてつながった感じがありました。

当時はそういう風に言葉にすることはできなかったですが、ただただ外から力をもらっているという感じを持って降りて行った。僕にとってはたいへん人に迷惑をかけた失敗体験でもあったのですが、ある意味自分の転機となった成功体験でもあった。

救急車で運ばれている途中、まだ意識はありました。救急隊員の方がとても立派に見えて、なかなかいい面構えの格好いい人だった。肌もつやつや血色がいい。それで「手を握ってください」と頼みました。むこうはちょっとびっくりしたみたいだけど、「いいですよ」と握ってくれた。救急隊ですから力強くしっかりした手で、温かい。人から流れてくる命があって、その温かさがすごいと思った。人ってすごくいいものだと思った体験です。その方とはもうお会いできないでしょうが、そういう方々に支えられて僕は今命をもらっているんだなと思います。

病院の集中治療室に運ばれると、看護婦さんがまず現われて、診察台から見上げると本当に天使に見える。もちろん体の痛みはありますから、動こうとすると看護婦さんから動いちゃいけないと足を押えられる。手術の前に「上着切りますよ」と言われて、一所懸命バイトして初めて買ったダウンジャケットなので「切らないでください! 自分で脱ぎます」と。看護婦さんに「あなた何言ってるの!?」と叱られましたが。自分が死にかけていると思っていないんです。

その後5カ月入院しました。親や姉夫婦と、兄弟3人が全員来て。家族に心配されているのがそのときよくわかりました。姉に後から聞いた話ですが「心電図を見たら一瞬まっすぐ横棒になっていたわよ」というから、危ない時間もあったのかもしれないですね。

その後、再び無謀な行動をするともう片方の腎臓もなくなって死ぬなとは考えました。死ぬようなことは2回はやめておこうと決心しました。しかし山はやめなかった。先輩が見舞いに来てくれたとき、同行は無理だと断られてこちらが癇癪を起したのに、「期待させて誘っていながら断って済まなかった」と言ってくれて。いい先輩だと思い、山岳部は続けようと。先輩は、後に30歳位で山で亡くなったのですが、よく叱られました。

普段は皇居の周りをランニングしたり、石垣を登ったりのトレーニング。夏は穂高で岩登りや、剣岳、谷川岳も行きました。でも冬山の方が好きだった。冬の剣岳は入山経験がある人がいないと、初心者だけでは登れないという、県の条例があるのですが、そういう山に入るのは困難であるだけに面白かった。

山では自分と対峙しながら、自然の中にいられる。都会にいるより人がいない方が孤独じゃない。あまり人と話をするのが得意じゃなくて、人前で何か発表するのがすごく苦手でした。仲間といるのは楽しいけど、率先して何かやるのは苦手でした。スポットライトを浴びるのは好きじゃなかったですね。

遠征隊長になり紛争地帯にも踏み入る遠征隊長になり紛争地帯にも踏み入る

大学を卒業する年に遠征の計画を立てました。僕らはパキスタンのカラコルム山脈にトレッキングパーミッションで行くことになりました。ある雑誌にカラコルムの写真が出ていたのを同期の仲間が見て、「ここに行きたい」と切望したのがきっかけです。その頃登山のシステムが変わりつつあり、ようやくネパールにならって、アジア各国も海外登山者が入りやすいように法律を整備し出していました。山の標高によって登山とトレッキングに分類され、登山隊になると入山に当たって払う金額が増えたり、軍のリエゾン・オフィサー(連絡官)が監視役としてつくなど、手続きが大変です。しかしパキスタンはまだ厳密ではなく、6000メートル未満の山はトレッキングと非常にアバウト。トレッキングルートは明文化されていなかったので、それ未満は僕らでどこへ行ってもいいんだと拡大解釈をしました。

それに、OBに頼らず自分たちで遠征を企画することを重視していました。中心になったのはその同期です。すごく純粋で山登りに夢中になっていた。どちらかというと僕は、準備する裏方役に回りました。遠征を組んで学生7人で行き、僕が隊長としてマネジメントすることになりました。僕ら4年生が卒業した後の5月に遠征を決行。そういうことで、就職活動もまともにしていません。あるフィットネスクラブに面接に行き、大変好意的に扱ってくれたのですが「やばい、このままでは就職してしまう」と困りまして。内定取ったらカラコルムに行けませんから、断りました。今考えると、就職してもそれはそれで満足な人生だったかもしれませんね。

現地は治安が悪く、当時アフガン戦争の時代。ペシャワールでバザールを見に行こうとしたら「僕らだけで行っちゃいけない」と止められて、地元のガイドと一緒に行きました。小さい小屋がいっぱいならんでいて、自動小銃のAK40を陳列して堂々と売っていました。「お前買うか。日本に持って帰るか」と言われて、いや、買わないよと(笑)。向こうの人は普通に銃を持っています。山奥の村でも部族同士の争いがあり、隣同士の村でも言葉が違ったりします。別の地域に入って行くときは、地域の部族長に話を事前に通してから、庇護の下になって行く。そうするとその地域にボディガードがついて、町を歩くときは銃をチラチラ見せながら二人くらいが両脇を歩いて行く。銃声が聞こえて、「戦闘だ!」と思ったら「いや、あれはただの景気づけだ」という。若い兵士はすぐ銃を上に向けて撃つんです。流れ弾に当たらないようにしてくれと言われました。緊迫感があるので、向こうの人は目つきが鋭いです。そんな光景を見て日本に帰ってくると、平和ボケしていると痛感します。

気のいい日本人はいいカモ。登山隊が来ると現地人は職がほしいので、荷物担ぎに集まってきます。人を選んで契約するんですが、それにもかかわらず、1日歩くとすぐストライキをする。この賃金では働けないとなる。喧々諤々もめるわけです。

遠征隊なので動ける日数が限られているので1日それでつぶれると登山できるチャンスが減ってしまう。こっちも必死です。何とか交渉するんですが、向こうはそんなの先刻ご承知の上。なだめすかして人情に訴えようとしても、日本人の事情など知ったことではない。何度もストライキに遭いましたし、道を丸太でふさがれてジープを通れないようにして、周りから銃で囲まれて「金を出せ」と脅されたこともあります。向こうが言うには、あくまで暴動ではなく「運び賃を上げろ」という“交渉”。強盗したとなると後で軍や警察が来てしまうので、「俺たちは物盗りではない。価格交渉だ」と言い張る。でも銃持って囲まれてしまうと、もう従うしかない。いろいろハードな勉強をさせてもらいました。

奥穂高の山小屋の番人に奥穂高の山小屋の番人に

父は学生の時から「山はやめろ」と言っていましたし、就職しなかったことに大変がっかりしました。年もとり、会社経営から引退して長かったので、もうほとんどコネもなかったのですが、遠い親せきを頼って就職先を勧めてくる。こちらはその気がないので生返事であしらい、プータローです。

遠征から帰ってきてどうしようかなと思っていた矢先、飛行機の墜落事故があって、報道陣の荷物担ぎに山に登る連中がほしいと山岳部に緊急招集がかかり、僕の同期や後輩が駆り出されました。結局、彼らは山には登れず待機で終わったらしいですが、帰って話を聞くと毎日宿に泊まっていい食事もあり、ビールも飲めたというバイトです。「何で俺に声をかけないんだ」と(笑)。僕は同期に「次に話が来たら俺に仕事を回せ」と言っておきました。

そこで回ってきたのがテレビ朝日の「日本百景」というお正月番組の三脚担ぎ。僕は喜び勇んで行きました。撮影で立山や穂高に登りました。奥穂高に山小屋があり、そこの支配人から「麓の山小屋に空きが1軒ある。長年おじいさんがやっていて、年を取って上がってこられなくなった。君やらないか」と言われて。「わかりました。ちょっと考えさせてください」と言いながらも、職のない身ですから渡りに船。山にいられる理想的な仕事ですから、すぐ「やります」と答えました。

国立公園の中の一軒家、隣のうちまで何キロというところでひと夏過ごしました。当時はヘンリー・D・ソローの名作『ウォールデン 森の生活』など知らなかったのですが、今思うとそういう世界に憧れていたのでしょうね。天然で人の手が入っていない森の中で独り暮らしができた。

しかし梅雨時になると、1週間くらい誰も来ない。岐阜県側の新穂高登山口は上高地より登山者が少ないんです。誰とも口を聞かないから、ますます口ベタになっていく。カサカサと動物が動く音がしたり、山から霧が降りてくる中で、次第に閉ざされていくような毎日でした。

※波乱万丈の高取さんの人生は、まだまだ始まったばかり。次回は、白籏史朗氏の下での修業時代、そして写真家としての独立を経て、研修活動に入るまでをお話いただきます。