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サイト開設を記念し、連載スタートした<講師誕生~人はいかにして「教える人」になるのか>の第6回目。
前回に引き続き、バリアフリー旅行の第一人者であると同時に、サービスの本質を鋭く説き明かす講演家としても著名な、高萩徳宗さんのインタビューをお届けします。
今回は、バリアフリー旅行との出会いから、ついに事業家として身を立てる決心をするまでの、波瀾万丈の時代を、じっくりと語っていただきます、(インタビュアー・根本英明)
高萩徳宗(たかはぎのりとし)さんプロフィール
障害がある方やご高齢の方と一緒に年間100日以上旅をするバリアフリー旅行の第一人者。
お客さまを弱者と捉えるのではない、サービスの視点でお体が不自由なお客さまがなかなか足を運べない場所への旅を積極的に企画。
一方では、07年まで5年連続でホノルルマラソンチャレンジツアーを企画し、自らもフルマラソンを走るなどユニバーサルデザイン発想のユニークな企画も実施している。
旅が大好きな人なら誰でも会員になれる、会員制旅行倶楽部「くらぶベルテンポ」を運営。
年齢や障害の有無に関係なく、旅ができる社会環境を作ることを目指して、常にお客さまへの「究極のサービス」を提供することにこだわり続ける。
コンサルタントとしても“おまけや値引きはサービスじゃない”など、従来のサービス感とは異なる角度からサービスの本質を提言。大手企業から自治体まで、サービスの伝道師として幅広く講演、研修、セミナー等を実施。全国の企業での講演、研修多数。また、旅行会社、観光施設などのバリアフリー&サービスコンサルタントとしても活動。新潟県、熊本県、三重県、秋田県などの各自治体をはじめ、ホテル、航空、鉄道、建設会社等の多種多様な民間企業でも講演や研修を行っている。
カナダで聴覚障害者旅行のガイドを体験
カナダに再び赴いたものの、最初は英語で何を聞かれてもわけわからず、苦労しました。カナダでたまたま見つけた仕事がツアーガイドです。向こうの免許をとってカナディアンロッキーを案内する仕事に就きました。これは天職でした。人をもてなすとはこんなに楽しいことなのかと実感しました。
そのときにバリアフリーの出会いがあるのです。自分の身内に障害者がいたわけでもないですし、介護体験があったわけでもない。たまたまカナダで旅行の仕事をしているときに聴覚障害のお客様がお見えになった。ハネムーンのカップルでした。通常のガイディングとは違って、観光案内の書面を私がつくって渡し、説明しました。旅行は楽しんでいただいたのですが、2日目の朝、集合時間になってもお二人が起きてこなく、電話やノックしても音がなかった。これは緊急事態かと、ホテルのベルマンを呼んで「反応がないからドアを開けてくれ」と頼んでマスターキーで開けたら、二人ともまだ寝ていただけでした。よく考えたら、聴こえないから電話もノックも意味がないのです。私もすごく恥ずかしい思いをしたのですが、本人たちもバツを悪そうにしていて。
それ以外は旅行も滞りなく終わり、最後にお別れするときに、「自分たちは障害があるけれども、耳が聞こえなくてもこんなに旅行を楽しむことができました」と感激してくださいました。それまでは、こういう方々が旅行することすら、考えたこともありませんでした。障害があっても旅行を楽しみたいし、楽しめるものだとそのとき初めて強く印象に残りました。ただ、それを仕事にするとはもちろんそのときは思ってもいません。今振り返ってみると、あのときがバリアフリー旅行に携わるスタートラインだったと思います。
その頃、うちの祖父母が立て続けに亡くなりました。カナダに永住するつもりでしたが、肉親を失い母が弱ってしまったので、帰国することにしました。
旅行会社に舞い戻り、恩人となる上司と出会う
古巣の日本旅行にも挨拶に行ったところ「何をしている? いつまでいるんだ?」と言われて、一時帰国をした理由を告げると「日本にいる間だけでも手伝ってくれ」とまた請われて。1週間だけなら、と思って働いたのですが、帰国日を決めていなかったので、クモの巣に絡めとられるように(笑)働き始めました。
それに、帰国したとき、母がすごく年老いたように感じてハッとしました。毎日子どもを案じているんだろうなと思ったら、帰るに帰れなくなってしまって。荷物はカナダに残したまま、電話回線も銀行口座も開いたまま戻ってきて今に至っているのですが。日本旅行は歓迎してくれて「社員は無理だけど契約社員にはなれるから」と、海外業務のセクションに戻してくれたので、仕事はすごく面白かったです。
そこの上司に、藤原さんという、私の父親代わりのような事業部長がいました。ある日、くさくさ仕事をしていたときに私を応接室に呼んで「お前、今辞めたいと思ってるだろ?」と切り出されました。そして「確かに不安定な身分もわかるけど、この事業部にはお前が必要だから、もうちょっとでいいから力を貸してくれないか」と頼まれて…。あのときに日本に残る決意をしました。
「社員になる気はあるか」と聞かれ「無理だとは思うけど、なれるならそう望みます」と言ったら、中途採用がもうすぐ始まるので、受けてみないかと誘われました。しかし、私は高卒なので条件はクリアしていなかった。家が貧乏で大学に行けず、小田急電鉄時代に放送大学の講座を受けていましたが、勤務が不規則なのでなかなか履修できずにいました。
当時小田急の指導主任が「お前大学なんて行ってどうするんだよ。こうやって働いて給料ももらっているのに。ほかの社員が勤務のやり繰りをしなければならないから迷惑だ」と嫌味を言われショックを受けて。でも確かに自己満足だなと思い、会社を辞めてカナダに行く前に休学しました。
しかし「残った単位を取れれば卒業見込みにしてやるから」と藤原さんに励まされ、必死になって勉強を再開しました。そのときに書いた卒論が「身体障害者の海外旅行」だったのです。カナダの体験がものすごく頭の中に残っていたので、障害者も旅行したいことを伝えたかった。首の皮一枚でつながって単位を取れ、中途採用試験も受けさせてもらった。応募者800人のうち採用された3人のうちの1人に入れていただいたのです。
後から聞かされたのですが、実力はそうそうたる人がいたのですが、今私がすでに契約社員で働いていて「こいつは即戦力になるからぜひ欲しいんだ」と事業部長が人事部にわざわざ言いに行ってくれたのです。そのことを後ほど別の部署の人から言われて……。ご恩は一生忘れられないですね。
ボランティアサークルとの出会い
日本旅行はのべ10年弱いました。海外旅行企画といえば、旅行会社の花形です。そのときは海外にも一人で出張できるような立場にいました。自分が作ったパンフレットを店頭に並べ、お客さまはそれを手にとって申し込む。ものすごくやりがいのある仕事です。売れるも売れないも自分の腕次第。年間何万人のお客さまに旅行プランをお届けする仕事をしていました。
本部にはお客さまからさまざまな問い合わせがくるのですが、「車椅子でも行けますか」、あるいは「障害のある方が参加できますか」という打診もありました。私には決定権はないのですが、目の前でオペレーションする人たちは彼らを門前払いです。しかし、私はお客様に旅をして欲しくて、心をこめて旅行企画しているのに、断るのはおかしいじゃないかと思いました。プロとして商品をお届けして、「買いたい」と言って来ているお客さまを断るなんて。工夫をすれば手立てはあるんじゃないかと、常々疑問に感じました。
しかし、会社のムードとして「何かあったときに責任がとれない」「周りのお客様に迷惑をかける」ということで断り続けていた。私も会議で問題提起してみたのですが、今から10年前はそういう議題を取り上げることすらアンタッチャブルというムード。若気の至りで腹もたったのですが、自分なりに企画書を書いて提案し、相談してみても、やはり大きい組織の中でできることの限界も見えます。大量生産、大量販売、薄利多売のビジネスモデルですから、手間がかかる人のために対応できないというのが分かるくらい、大人になっていましたから。
そういう旅行会社がないかといろいろ調べてみたのですが、当時は存在していなかった。しかし障害者のための旅行のボランティアサークルの会がありました。そこの門を叩いて「今自分は旅行会社に勤めているのだけれども、車椅子を押したり、障害者の世話をしたりという経験がない。どうしたらできるようになるか」と相談したところ、先方からは「人手が足りなくて困っているから入会してくれ」と頼まれました。すぐに旅行に連れ出されて、障害者の人とカップリングして、車椅子を押しながら旅行に出かけるボランティアになりました。
「俺たちだって普通の旅行がしたいんだ」
私は別にボランティアがやりたくて入ったわけではなく、何かいいことしたいとか、福祉の勉強をしたいとかの先入観がなかった。ただ、彼らの心理を知りたいと思ったのです。旅行に断られるとはどういうことなのか、自分の足で立てないのはどんな気持ちなのか、障害があるとどんな人生を送るのかという事実に、興味があったのです。福祉の世界の人たちは絶対にそういうことを聞いてはいけないことなのでしょうが、私は単純に自分の興味の赴くまま聞いて、皆さんちゃんと答えてくれた。普通の人は腫れ物に触るように感じてしまいますよね。
あるとき重度障害者の方と長野に旅行したとき、日本の街がバリアだらけで障害者にとってひどいつくりだと聞かされました。段差もそうですが、お茶が飲みたいと思ってレストランに入ろうと思っても体よく入店拒否されると彼は訴えるのです。
その方の食事や着替え、お風呂をお手伝いして夜一緒にビールを飲んで。その日は私が先に寝てしまいました。すると夜中2時に叩き起こされて、トイレの介助かと思って飛び起きたら「喉が渇いたからビールを飲ませてくれ」と頼まれました。「何時だと思ってるんだ!」こちらも腹が立つし怒って大喧嘩をして、相手をせず寝てしまいました。その非常識さに、翌朝も私は怒っていました。でもその人はぼそっと「高萩さん、俺だってお前らにいちいち頭を下げて旅行になんて行きたくないよ。普通の人間として普通にお金を払って旅行に行きたい。でも俺たちに選択肢はないんだ」と言うのです。やむなくボランティアサークルに頼み旅行に連れて行ってくださいと頭を下げる障害者。
「すいません、ありがとうといいながら旅行する以外にないんだ」。
そのときに頭をガツンと殴られた気がしました。1つは、自分のおごり高ぶっている、上からものを見ている目線です。自分が休みの日に自分の時間を使ってお世話している、自己陶酔の気持ちのいい自分がそこにいる。だけど、偽善を演出している自分を思い知らされました。
あとは、ボランティアでできることの限界です。自分の大事な用事、例えば大切な約束があるからといってボランティアを断っていると、すごく罪悪感をもちます。
彼とはよく喧嘩をしたのですが、私は彼にとって使い勝手がいいと判断されて、しょっちゅうオーダーがくるわけです。そうなると断りづらい。徹夜が続いて平日クタクタになるまで働いても、「人手が足りないからちょっといい?」と言われて、「いいですよ、何時に向かえばいいですか」と言うと「電車が込まないうちがいいから朝5時半に来てくれ」と平気で言われる。でも彼らは必死なんです。協力する人をつかまえておきたい。でも、実際はやっていられない。限界ですよね。
バリアフリーの旅行会社設立を決意
もう1つ彼から学んだ気づきは、そういうサービスの会社があればいいのではないかということ。
バリアフリーの旅行会社で、オーダーメードの旅行プランを組んでくれたら利用するかと、サークルに参加する障害者の皆さん一人ひとりにニーズを聞いたら、全員が「利用したい」と言ってくれました。それで会社を立ち上げることにしました。私は起業家精神もないですし、将来的なビジョンもないですが、目の前にサービスを必要としてくれる人が30人いるのだったらやるか、という気持ちでした。事業計画もありません。
ちょうどそのころ日本旅行では、父親代わりだった部長が転勤し、別の上司の下、心に穴が空いたようになって働いていましたし。日常の仕事も、会議、会議の連続で、勤務時間の3分の2は会議および会議の資料作成です。私は若手なので資料作成を任されるのですが、現場の仕事より会議が多いのがイヤで仕方がない。小田急時代から血気盛んでしたから「この会議がいかにムダか」、それに「この会議で人件費がいくらかかってると思うんですか!」とずっと訴えてきました。
意思決定も進まず、やっと決まるのは次の会議の日程。僕たちは旅を通じて夢を売るのが仕事なのに、新しい部長から飛んでくる言葉は「他社はいくらで売っているんだ?」。ここは商品企画課なのに「比較課ですか?」と、部長のやり方に反発しました。あまりに腹立たしくて、机をひっくり返したこともあります。
直属の課長とも、いつも大ゲンカしていました。前の部長が「旅はロマンだ」と熱く語っていた頃は、その一言で頑張れていましたが、上司によってマネジメントはこうも変わってしまうのかと、悲しかった。こんな部長に仕える課長もかわいそうだったのかもしれません。いつも「管理職としてこれでいいんですか!」と課長にはぶつけていたのですが、「高萩、助けてくれよ。俺もサラリーマンなんだよ」と泣きつかれて(笑)。課長にそう言われて、こっちの方が悔しくて情けなくて、涙が止まりませんでした。普通は飲み屋でこぼすグチを、私の場合、仕事の席で上司にぶつけるから嫌がられたんですね。
そんな経緯もあって、私は辞表を持っていきました。そのとき課長は本当に嬉しそうな顔をして「そうか、残念だなー」と満面の笑み(笑)。
でもその課長さんは私が会社をつくったときに、事務所に来てくれました。自分が経営者になると、上の立場の気持ちもわかる。さすがにあの頃は私も悪いことをしたと思って謝りました。そしたら課長の方も、「お前の所のような会社も必要だから、応援しているよ」と言ってくださって。それで和解したんです。
※次回は、いよいよ最終回。旅行会社をめぐるさまざまなエピソードと、「講演家=教える人」としての歩みを、じっくりと語っていただく予定です。
