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サイト開設記念連載企画 講師誕生!人はいかにして「教える人」となるのか

第5回:高萩徳宗さん(有限会社ベルテンポ・トラベル・アンドコンサルタンツ)その1

サイト開設を記念し、連載スタートした<講師誕生~人はいかにして「教える人」になるのか>の第5回目。今回は、バリアフリー旅行の第一人者であると同時に、サービスの本質を鋭く説き明かす講演家としても著名な、高萩徳宗さんがゲストです。

どんな人の人生にもドラマがありますが、高萩さんの人生は、ドラマ以上にドラマチックという他はありません。まずはご一読ください。読み終えた後には、きっとあなたも「この人の話を聞いてみたい!」と、思わずにいられないはずです。(インタビュアー・根本英明)

高萩徳宗さん

高萩徳宗(たかはぎのりとし)さんプロフィール

障害がある方やご高齢の方と一緒に年間100日以上旅をするバリアフリー旅行の第一人者。
お客さまを弱者と捉えるのではない、サービスの視点でお体が不自由なお客さまがなかなか足を運べない場所への旅を積極的に企画。
一方では、07年まで5年連続でホノルルマラソンチャレンジツアーを企画し、自らもフルマラソンを走るなどユニバーサルデザイン発想のユニークな企画も実施している。
旅が大好きな人なら誰でも会員になれる、会員制旅行倶楽部「くらぶベルテンポ」を運営。
年齢や障害の有無に関係なく、旅ができる社会環境を作ることを目指して、常にお客さまへの「究極のサービス」を提供することにこだわり続ける。
コンサルタントとしても“おまけや値引きはサービスじゃない”など、従来のサービス感とは異なる角度からサービスの本質を提言。大手企業から自治体まで、サービスの伝道師として幅広く講演、研修、セミナー等を実施。全国の企業での講演、研修多数。また、旅行会社、観光施設などのバリアフリー&サービスコンサルタントとしても活動。新潟県、熊本県、三重県、秋田県などの各自治体をはじめ、ホテル、航空、鉄道、建設会社等の多種多様な民間企業でも講演や研修を行っている。

いじめられっ子だった少年時代

私は話をするのはそれほど得意ではなく、できれば人前で話すのは避けたいほうです。話すより書く方が好き。講演は話をする人の様子が気になってしかたがない。300人の前で話していても「あの人聞いてないな」と壇上からわかってしまい、それが気になって。気が小さいんです(笑)。

それでも、話すという体験をしてこなかったわけではなく、人前で話し始めたのは、高校生のときに生徒会長になったのがきっかけです。

実は、中学校の3年まではひきこもりでいじめられていて、軟弱なタイプだった。それまでの記憶を消したいくらい、嫌な思いを引きずっていました。家は貧乏だったのですが、母親は普通科高校に行って、奨学金を受けながら大学に進んで欲しいと強く望んでいました。兄は母の意を汲んで進学校に進みましたが、家庭の事情で結局大学には行けなかった。私は次男なので反発心が強くて、自分の行く学校は自分で決めると思い、大分商業高校に営業科があることを聞き、偏差値は関係なく進学希望しました。デパートの店員なんかに漠然とした憧れがあったんです。

ところが、中学校の担任に伝えると、ものすごく嫌な顔をされまして。「そんな学校に行くのはわが校の恥だ」と言われました。そのときは意味がわかりませんが、学校にとっては進学校に何人入れたかが大事ですからね。母親もショックを受け、兄も「あの学校だけはやめておけ」と反対する。後で知ったのですが、ワルが集まる学校だったのです。偏差値も低かった。でも、営業科に行きたかったので、曲げずにいたら担任もあきらめて。生まれて初めて自分で自分の道を選びました。

不良だらけの高校で生徒会長に

軟弱ないじめられっ子が、不良の巣窟に行ったのですから大変です。行ってみたら、全校生徒の9割が剃り込みのリーゼント、長ラン、ボンタンで、まるで「ビーバップ・ハイスクール」「花の応援団」の世界(笑)。上下関係が厳しくて、1年生というだけでボコボコにされるようなところだった。怖くて、生傷が絶えなかったです。

ある日、挨拶回りで上級生が来て「応援団に入れ」と、勧誘というか、連行されてしまった。部員に指名されたのです。僕が軟弱だったから、こいつ鍛えてやるかというつもりで、面白半分だったのでしょうね。忘れもしない木本さんという先輩でした。

そこからは毎日シゴキです。でも、不思議と嫌じゃなかった。今のいじめと違うのは、あのときの先輩には愛情があった。誇りもありました。これ以上はやってはいけないという手加減も心得ていた。

余談ですが、昨年、私の活動がテレビ東京の「ガイアの夜明け」で取り上げられましたが、応援団の木本先輩から突然メールがきて、びっくりしました。そっけなく「テレビ見たぞ」と一言だけ書かれていて。今は都内の製造業の社長になっていました。「あの時はしごいてもらってありがとうございます」と、さっそく返事を打ちました。嬉しかったですね。不良の見本みたいな人で、もちろん勉強ができたわけでなく、卒業できるかと言われていたような人が、社長になるのですからね。

そのような日々を過ごし、2年になったとき、生徒会選挙があり、同級生の剣道部員から「高萩、お前が立候補しろ」と言われました。彼も札ツキのワルでしたが、対抗馬がいけ好かなかったのでしょうね。とにかく営業科から生徒会長を出す! と決まって立候補させられた。

対抗馬は、商業科のイケメンです。とても勝てないはずでしたが、最後の決戦で、6票差で私が勝ったんです。そのとき私の頭は七三の、いかにもまじめな学生。先輩のところに挨拶に行ったら、「その髪型はなんだ!」といきなり怒られました。「とにかくすぐにパーマをかけろ」と言われて、オールバックにさせられ、次に「その学ランはなんだ!」と、その足で学生服を買いに行かされた。裏地に竜が昇って「南無阿弥陀仏」と書いてあるやつで(笑)。それが当時の生徒会長のスタイルだったわけです。それは学校でも黙認なんですね。そんな経緯で、生徒会長としていきなり全校生徒1500人の前で挨拶をさせられたのが、人前で話した初めての経験です。

だから、度胸は据わっていると思います。だけど、話すのが好きかといわれれば好きではないですね。

社会人のイロハを教わった車掌時代

高校卒業後は、小田急電鉄に入社しました。経堂駅に配属されて、1年目は切符切りでした。右も左もわからない田舎者が東京に出てきて、人ごみの中で社会人生活を始めました。そのころ、トラベルコーディネーターや講師という職業はまったく考えていません。とにかく仕事を覚えることに無我夢中でした。

社会人になった25年前は、体育会系の会社で上下関係が非常に厳しかった。夜に駅のホームの掃除をするんですが、箒の持ち方ひとつでも「心をこめて仕事をしていない!お前やる気あるのか」と、手が飛んでくるほど。先輩から愛のムチで厳しい指導を受けました。

駅の切符切りが1年、その後車掌を4年半。通算5年半小田急電鉄にいました。きれいごとじゃない部分でお客様と対面していたのが、その後の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。

小田急では印象的なことがいくつかありました。例えば経堂駅は当時車庫があったので、12時過ぎると、最終電車が車庫に入るために集まってくる。バブル絶頂期ですから泥酔者が大勢乗っていて、「お客さん終点ですよ」と揺するのですが、起きてくれない。しょうがないからベンチに抱きかかえて座らせる。これは困ったということも何度もありました。

でも、「なぜこの人たちはグタグタになるまで飲むのだろう」と考えると、可哀想な気がして。飲まずにはいられない事情があるのでしょう。駅員の立場からすれば邪魔な酔っ払いですが、違う角度から見ると、この人には家庭のお父さんで、一所懸命働く企業戦士でもあり、訳あってここにいると考えると、すごく親近感がわきました。

試しに「お客さん、こんなところで寝ていたら風邪引きますよ」と声をかけたら、スクッと起き上がる。魔法の言葉ですね。「終点ですよ」と声をかけると「うるせえ、馬鹿野郎」ですが、労りの言葉をかけると起き上がる。仕事というのは、角度を変えてやってみれば変わるという体験でした。仕事は相手への思いやり、お客さまへの思いやりと実感した原点です。

また、トラブルや急病人への対処でどう行動するか、それも上下関係の中で教わりました。非常時の緊急訓練は徹底的に叩き込まれます。当時の先輩たちは、仕事への誇りやプロ意識が非常に高かった。人身事故が起きて電車が止まったときに、周りのお客さまからは罵声を浴びせられる。目の前には救急搬送しなくてはならない負傷者がいる。しかし車掌はプロとして、その場を最善の状態で処理していく訓練をさせられます。今サービスの講演や講師をさせていただいている中で、プロとは何かを問う意識は、一貫して軸としてぶれていない部分です。

「籠の鳥」を抜け出し、広い世界へ

もともと電車が大好きで、車掌を辞める直前はロマンスカーに乗っていましたから、非常に面白い。仕事に誇りを持っていました。ロマンスカーは停車駅が少なく、小田原が近くなると、わりと手がすきます。23歳のある日、乗車中に窓の外を見ていたときに「俺は一生新宿と箱根湯本の間を行ったり来たりして人生を終わるのかな」と、ふと思った。そのとき、天の声が聞こえたような気がしました。「いや、自分はもっと世界を舞台に活躍すべきではないか」と思った瞬間を、今でも覚えています。

若気の至りですが、もっと外の世界で羽ばたいてみたいと望みました。運輸業は保守的な業種。会社の施策としても定着率を良くするため、社員の処遇がいい。給料も高く、社内預金の利息もいい。持ち家制度の支援で、早く所帯を持てるようにしている。定着率を守る雇用制度や福利厚生は、今日本が失いつつあるいい部分だと思うのですが、逆に言えば籠の鳥。フッと外に出たくなった。

ある日乗務が終わって区長さんに「世界を見てみたいので1カ月休みをくれないか」とお願いしました。辞めて行けと言われるのが関の山と思ったのですが、「若いうちに世界を見るのはいいことだ。行って来い」と、勤務をやりくりしてもらって、1カ月休みをくれたんです。あのときが最初のターニングポイントでした。

最初はどこへ行くかも決めていません。海外といえばアメリカだろうと、HISに行き「ニューヨークまで1枚ください」と航空券を買った。当時1ドル260円くらいで、24万円でした。しかし、そのとき私は知らなかったのですが、アメリカの首都はワシントンなんですね(笑)。これはホワイトハウスに行かなくちゃダメだと、目的地はNY経由ワシントンにして。生まれて初めての海外旅行はバックパック旅行です。

空港に降り立ったら映画の世界。黒人のタクシーの客引きを見て、逃げるようにワシントン行きの飛行機に乗り換えて、ワシントンに夜11時に到着しました。

ワシントンでの宿泊先だけは、旅行会社の友人が心配して用意してくれていました。翌日ホワイトハウスとスミソニアン博物館を見て。「地球の歩き方」を見ながら観光しました。ワシントンからNYにも行ったのですが、 アメリカ縦断せず、カナダへ行きました。男なのにおかしい話ですが、「赤毛のアン」の原書を友人からもらって読んでみると面白くて、赤毛のアンイコール外国のイメージでした。国境を越えてモントリオール行きの列車に乗り込み、先は何も決めないその日暮らし。ぐるぐる回って東に行き、ハリファックスにたどり着きました。次にプリンスエドワード島に着いたとき、初めて日本にいる母に「生きてるから」と電話しました。

ユースホステルに泊まり歩いてると、世界中からバックパッカーが来ていて、英語もしゃべれないのに、ベルギーやアイルランドの旅行者と話をして、面白かったですね。地球は広いと実感しました。

安定を捨てて、旅行会社のアルバイトに

帰国して出社したその日に、区長さんのところに帰国の報告をしました。さっそく「つきましては、会社を辞めさせてください」と切り出しました。恩をあだで返すとはこのことです。でも区長さんは一言ポロッと「お前はきっとそう言うと思ってたよ」つぶやきました。引きとめもせず応援してくださって。

辞めてなにかをする当てもなかった。ただ籠の鳥が外に出たら違う人生があると、辞めたのが1988年です。あてもないまま、お世話になった人たちに挨拶回りに行きました。

日本旅行にも知り合いがいて、挨拶しに行ったらえらく心配されて。「これからどうするの」「いや、何も決めてません」「決めなくてもいいから、その日の食い扶持くらいは稼がなくちゃいけないから、うちの会社でアルバイトしろ」と、人事につないでくれました。

人手が足りなくて困っていたらしく「明日から来られますか」と、とんとん拍子に決定。サラリーマンを辞めたのに4日後から日本旅行で働き始めました。旅は好きでしたが、旅行業で働くつもりはなかったのに…。時給650円。小田急時代はかなりいい給料を貰っていましたから何分の1です。でも、違う世界が見えるだけで楽しかった。海外のオペレーションセンターに配属されました。世界中のエアチケットやホテルを仕入れているセクションです。忙しすぎて女性だと体が持たず、男のアルバイトを求めていたようで。「僕は英語を喋れないのですが」と躊躇していたら、「いや、そういう問題じゃないから来てくれ」と言われ、初日から電話を取っていました。

それからはガムシャラに、ぼろ雑巾のように1年くらい働いて、お金も貯まらないので別のバイトを掛け持ちしていました。手持ちのお金ができて、よし、これで外国行くぞと、また奮起しました。でもお恥ずかしい話ですが20万円くらいしか貯まらなかった。行ける場所は限られて、しかも現地で働けることが条件。留学するお金もないので、ワーキングホリデー制度を使うことにしました。

前回の旅行の印象から、行き先はカナダに決めて。最初はお金が足りず往復航空券が買えなかった。しょうがないから片道バンクーバー行きで、帰る当てもなく出発です。なんと60人くらい見送りに来てくれて、それも面白かった。特別会議室を借りて壮行会をやってくれたんですよ。

それから丸2年も、カナダにいることになります。

*今回は、高萩さんが旅行業界に入るまでの経緯などが中心でしたが、次回は、氏の人生を大きく変えることになる「バリアフリーの旅」との出会いを中心に語っていただきます。お楽しみに。