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サイト開設を記念し、連載スタートした<講師誕生~人はいかにして「教える人」になるのか>の第3回目。
今回は、小児病棟での患児ケアの後、普通の主婦としての時代を経て、現在は講演会や企業研修の講師として活躍されている山田淳子さんがゲストです。
いったん家庭に入ると、以前の仕事に復帰することさえ、難しいのが現実。そうした中で、新たなキャリアを自分で開拓しながら、再び社会の第一線に立つことは、容易ならざることであったはずです。女性に限らず、自分の職業人生について悩みを持つ方すべてに、参考になるお話かと思います。ぜひ、ご一読を。(インタビュアー・上本洋子)
山田淳子さんプロフィール
1952年大阪生まれ 。大学(家政学部児童学科)卒業後、病院小児病棟にて入院患児のケアにあたる 。幼児教室「こどもの部屋」で指導と教材開発。 1986年から10年間、森本邦子氏主宰の「イキイキ子育てセミナー」の運営とサポートにかかわる。 子育てアドバイザーとして各地で講演、講座講師として活動開始(1994年~)。1996年、東洋合成工業株式会社に入社、2004年に 総務部専任コーチに異動。 株式会社Atsuko Bounce設立 (2006年~)。国際コーチ連盟マスター認定コーチ。日本ファシリテーション協会所属。
教える仕事の原点は、入院中の児童の学習指導
キャリアのスタートは、講師に近い仕事といえなくもなくて、財団法人住友病院(大阪市)で長期入院の子どもたちの指導をしていました。大学時代に幼稚園の教員免許をとったのですが、そのまま幼稚園の先生になる気はしなかったものですから。
病院での仕事は、腎臓病やぜんそくの子どもたちの生活や勉強の面倒を見ることでした。先見的な病院で、私が入る以前は学生のアルバイトが週3回子供の面倒をみていたのですが、私が専任の正職員として、生活指導に入ることになりました。最近では、東京都でも入院する子ども向けの学習指導や図書の貸し出しサービスなどがありますが、33年前は専任の学習指導者が病院に入ることは珍しかったんです。
そこでは4年弱勤務しています。ドクター、ナースと相談しつつ、治療最優先で子供の勉強を見ていました。担当したのは2歳から15歳まで、50床の小児病棟でした。しかし、入院する子どもたちは治療方針上、食事も勉強も、全部ベッドの上で済ませる生活。小さな子どもにとっては大変な環境でした。1日1時間だけ勉強の時間が限られているので、何ができるのか考えて、基礎学習のメニューを組み立て一緒に取り組んだり、小さな子には絵本の読み聞かせをしたり。短い時間でそれぞれ教科書も違い、勉強らしい勉強もできないのですが、それぞれの子たちを見て、質問に答えてあげる。季節の折々に鯉のぼりをつくるなど工作をしたり、寝たきりの子をストレッチャーでプレイルームに運んで皆でクリスマスパーティーをしたり。子どもたちから先生と呼ばれて、少々遊びも入れながら飽きさせない工夫をしていました。
しかし入職当時の面接では、事務長から「職場の和を乱さず、保てれば、80%仕事はできたことにします」と言われて(笑)。看護師さんなど、女性の多い職場ですから、コミュニケーションに気を遣う場面もあります。ただ、上司には恵まれていました。のちに別の病院に移って副院長になって叙勲を受けたほどの方なのですが、私が仕事をしやすいように、ナースたちに対して私の存在を「見習いなさい」と言って立ててくれました。
学校給食の改善求めて自ら住民の旗振り役に
結婚を機に病院を退職し、5年間で3人の子どもに恵まれました。結婚してからは10年間仕事をしていません。子育てが少し落ち着いた10年目に、幼児教室の指導員と教材開発の仕事をしました。基本的には、1~3人の子に指導員1人という少人数制の教育方法です。
これはパートの仕事で、そのほかは地域活動にのめりこんでいました。幼稚園の会長から始めて、小学校・中学校までPTA関連の活動は10年間どっぷり浸かりました。PTA会長も2年務めました。地域のPTAに入る前に、全国PTA問題研究会に入って専門誌を読んでいたほど子どものことには関心がありました。
第1子が赤ん坊の頃、「なぜこんなに給食が改善されないのか」と近所のお母さんたちとも話題になりました。自分の子供が入学したときも、その状況は変わらず、どうして改善されないのかを周辺の方々に問いかけました。しかし地域の人たちは「確かにそう思うけど、リーダーシップを持ってやる人がいないし…」と一歩引いてしまう。「それなら私がやります!」と、「学校給食を考える会」を自ら立ち上げました。活動の結果、当時3万人の町で1万3,000人の署名を集めて請願書を提出するほど、組織パワーを持つようになりました。
とは言え、もともと社会運動が好きだったとか、問題意識が高かったわけでもありません。ただ、皆が躊躇していることには黙っていられない性分。他の人が全然手が出ないと思うものをやってみたくなるんです。コーチングの時にも、クライアントにこう話します。「やってみて、動いてみないと、次の景色は見えない」って。考えるよりまず動いてみる性格です。
実験助手のかたわらコーチングを猛勉強
幼児教室がバブル崩壊のあおりで閉鎖した後、児童教育の専門知識やこれまでの経験を生かして、子育てセミナーの講師として活動し、また短期的な仕事をいくつか経験しました。その後長く働いたのが、東洋合成工業株式会社という化学系の会社です。1996年に実験助手として入社し、最初の1年はパートでした。最初のパートに出た動機も、いくつかのネットワーク活動に参加していて、その会費が年間2万円必要となり、自分の自由になるお金がほしかったという、単純な動機です。
だけど化学の仕事なんて、私の関心とは正反対の分野。初めの1週間はガラスの実験器具を見るのがとても怖くて。「逃げるなら今のうち」だと毎日唱えていたのですが、それでも、働いているうちに、私の人生に全く関係なかった化学という分野を加えてもいいか、と思えるようになってきて。“きっとこれも、何かの縁があるはずや”と考えを切り替えました。
週3日の勤務からスタートしました。実験の準備や器具の洗浄、分析などの仕事を担当。正確さが求められるので、神経を使います。指示する社員からは「こんなおもしろくない仕事ばかりしてもらってごめんね」と言われました。でも私は逆に「何で?」と思いました。やってみると、言われた手順通り段取りを組み、きちんと結果を出すことで評価されるこの仕事が、楽しいと思えるようになってきたからです。だんだんのめりこんで、フルタイムの勤務に変わり、仕事に集中するために生活習慣も変えました。寝る時間も決めて、家事に使う時間もコントロールして、仕事に真剣に向き合えるように環境を整えました。
しかし、1~2年経つと仕事の変化のなさにもさすがに飽きてきます。何か新しいことを始めたいと思いました。そんな時コーチングと出合ったのです。
たまたま新聞にコーチングのワークショップの開催情報が出ていたのです。その直前、高2の娘に頼み込まれて、塾の費用に100万円を支払ったばかり。コーチングのセミナー費用は当時約50万円でしたが、「私だったら娘の塾代より絶対モトはとる!」と思って、エイヤと翌日振り込んでしまいました。1999年の秋のことです。
それまで子育ての講座の講師として話す回数は重ねていたのですが、もっと個人にかかわりたいという思いがありました。それでコーチングがいいと思ったのでしょうね。元々大学時代は、併設されていた臨床心理のクリニックで自閉症のお子さんたちの相手をしたり、お母さんの相談業務に参加させていただいたりしました。当時は学生として限られた範囲の実習ですが、そういう経験も思い出されてきて。コーチングですと1対1でかかわることができると思ったのです。
それに、化学会社の仕事は、計測に0コンマ4位までの正確さを求められる仕事ですから、かなり神経を遣います。気力・体力がいつまでも続かないでしょうし、自立してできる職業能力を身につけたいと思っていました。8時半から5時までの定時の仕事で、求められる作業をビシっとこなせば、あとは手放せるのもよかった。夜の時間をコーチング習得にあてることができました。そんなわけで、昼は化学会社という緻密で正確な世界で仕事をし、夜はコーチングという創造的な世界でスキル習得をしていました。
気がついたらコーチ仲間の先頭に
コーチングの勉強を始めたときは、ダラダラ進めるのではなく、飛行機が高度を上げて水平飛行に行くように一気に行くぞ、という決意がありましたね。自分の周辺の友人たちを見渡してみると、親の介護や自分の健康の問題がひしひしと押し寄せていたので、今のうちに勉強しておかねばと気を引き締めました。基本的に電話コーチングですが、月に1、2回集合研修もあるというペースで勉強を進めました。
1999年の秋にコーチングの勉強を始めて、2003年にはICF(国際コーチ連盟)の資格を取得しました。まる4年かかりましたが、最初は他の受講生に追い付き追い越せだったのに、気がついたら先頭に立っていた。日本人ではまだ数名の資格取得でした。受講生仲間はキャリア女性ばかり目について、最初のうち気後れしていたのですが、ここまで達成できて自分自身もびっくりしています。
勉強を始めて2年目からは、自分が学びながらコーチ養成プログラムにも関わるようになりました。そんなわけで、化学会社に勤務しながら夜はコーチングの自分のクラスも持ち、家に帰ってからも夜11時か12時くらいまで、電話でコーチングを3~4時間していました。また、これからCTPを受けようとする人の体験会や説明会にはよく引っ張り出されていましたから、私のような普通の働く女性がコーチになったということが、キャリアモデルとして適役だったのでしょう。(後編に続く)
※今回は、山田さんがコーチとなるまでの経緯が中心でしたが、次回は、「プロのコーチ・講師」としての現在の活躍ぶりや、仕事を通じた発見などを語っていただきます。お楽しみに。
