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シリーズ連載企画 講師誕生!人はいかにして「教える人」となるのか

渋谷正信さん(水中塾塾長、株式会社渋谷潜水工業代表取締役社長 ) その1

人材教育の最前線で活躍する、ユニークなキャリアを持った講師の方々をご紹介するシリーズ連載企画。今回からは、6人目のゲストである渋谷正信さんのインタビューを3回に分けてお届けします。

「水中」という異世界との出会いは渋谷さんの人生をどう変えたのか。そして、渋谷さんが主宰する「水中塾」は、参加者の心にどんな変容をもたらしているのか。「水中」をキーワードとする興味深いお話を、たくさんうかがうことができました。ぜひご一読ください。(インタビュアー・根本英明)

渋谷正信(しぶやまさのぶ)さん

渋谷正信(しぶやまさのぶ)さんプロフィール

1949年、北海道生まれ。プロのダイバー(潜水士)を養成する海洋開発技術学校・深海潜水科卒業。世界各地の水中を潜水、潜水時間は3万時間を超える。31歳で海洋工事を手掛ける渋谷潜水工業を設立。水中構造物建設における水中作業の請負人として「渋谷に出来ない作業はあきらめるしかない」といわれるほど、業界が認める第一人者となる。海洋・水中環境保全事業、サルベージ事業、潜水工法研究開発のほか、海の環境を回復する「海の森づくりプロジェクト」と海洋環境調査を行う株式会社オーシャングリーンを設立。TBSのTV番組「情熱大陸」「夢の扉」にその活動が紹介された。 海に潜るダイビングが人の心と体のやすらぎと調和につながることに注目し、1995年より「心と体を癒す水中セミナー」を開催。実体験・実践を通した心とからだの成長を追求している。また、野生のイルカと泳ぐドルフィンスイマーの第一人者として、イルカと調和するドルフィンスイムの指導も行っている。

流れに身を浮かせる川遊びに夢中だった子ども時代

もともと水に入ることが好きだったのです。私は北海道釧路市近郊の白糠出身ですが、このあたりでは野外で水遊びや水泳をする習慣がありません。夏の気温が低く日照時間は短いですし、日本で最も水に入らない地域でした。そういう所に育ったのですが、小学校一年生のとき、たまたま川で泳いだ経験がキッカケとなり、その時の水の上にふわっと浮いた気持ちよさが忘れられなくて、それが原体験となっています。それより小さな頃は銭湯でふざけて水遊びをしたことがありますが、足は付いていますからね。流れにのって泳げる川の中は楽しくて仕方がなかったのです。

それからは水に入る機会をたくさん持つようになりました。その当時近所にはプールがないので、川でしか遊べません。川で泳ぐのは、危ないからといって、学校では規則をもうけていました。学校が許可する日だけは泳いでもいいのですが、それ以外は泳げません。しかし私にとってそんな規則は、川で遊ぶ気持ちよさに比べたらどうでもよいことでした。川遊びの誘惑に勝てず、先生の目を盗んでは川遊びに行って、見つかっては、怒られていました。流れの中で水に浮く楽しさは、今でもハッキリと私の体感覚にしみついています。

泳ぎが好きで、ずっとプールで泳ぐことに憧れていました。夏は川で水遊びをすることで頭がいっぱいでした。中学・高校では、水泳部はなかったので、水泳を本格的に習った経験はありませんでした。

潜水の魅力にのめり込み、会社を辞めてプロダイバー専門学校へ

機械の専門校を卒業して川崎市にある大手メーカーの工場に就職しました。たまたまそこの中庭にプールがあったので、水が好きな私はさっそく水泳部に入部しました。しかし、それまでちゃんとした泳ぎを習っておらず、自己流で泳いでいましたから、水泳部で泳ぎはじめた頃は見るも無残な泳ぎでした。泳ぐというより、溺れているような様でしたから。

会社の上司や水泳部の先輩は私を可愛がってくれて、よく海遊びに連れて行ってくれました。そのとき初めて海に潜る経験をしたのです。最初は確か、三浦半島の長井だったと思います。先輩が持ってきた水中マスクとシュノーケルを借りて、魚やサザエを獲る楽しみを知ったのです。その経験が海に潜るとりこにしました。潜水にのめりこみました。こちらは(本州は)五月位から暖かいですから、会社に勤めながら休みの日は伊豆の海や真鶴半島の海にでかけていました。頭の中は、潜ることばかり考えていたような気がします。

海好きが高じて、海に行き続けているうちに「海に潜って生活できないかなあ」と考えるようになったのです。野外で遊ぶことが好きだった私にとって、会社の工場で働くのは息が詰まりそうだったのです。休みのたびに海に行ってましたが、その開放感がたまらず、会社を辞めて海に潜ることで食べていくことはできないかと模索するようになっていたのです。本気で、漁師になろうと思ったりしていました。

そんなとき、たまたま本屋で見つけた雑誌の中に、プロダイバー養成学校の広告が載っていて、それを見たとたんに一気に熱が高まり、会社を辞めてその学校に入る決意を固めたのです。大手メーカーの工場に五年間勤めた後でした。ただ結婚して奥さんがいたので不安定な職業に移ることに勇気が要りました。大手メーカーに勤めていましたから、生活は保障されていたのに、それを捨てるのですから。この時、奥さんの後押しが大きな「救い」になっています。

潜水学校の理事長は同郷の北海道出身で、アメリカに行って潜水技術を学び「これからは日本も海洋開発の時代だ」と思って、鹿児島に海洋開発の学校を立ち上げた人でした。

1年制と4年制の2コースがあり、私は奥さんに働いてもらって4年制に通うのは経済的に無理なので、1年制の深海潜水科に学びました。深海潜水作業は高給取りだと聞いたからです。マイホームを建てようと思って奥さんと二人で働いてためた貯金を学校の費用に回したので、それを挽回しようという気持ちがあったのです。 潜水技術を1年学んで、就職しようとしましたが、折しも昭和48年、49年は石油ショックの年です。企業は海洋開発などの事業を縮小していた頃です。就職先がどこもない状態になって、「どこも行くところがないのだったらうちに来い」と潜水学校の理事長に誘われたのです。理事長が経営する郷土料理店で働くことになりました。鹿児島の甑島に学校をつくったので、島の魚や農産物を東京のレストランで食べてもらうという、産地直送の郷土料理店のはしりを理事長がはじめたのです。そこに2年くらい店長として働きました。

しかし、居酒屋の店長をするために潜水の勉強したわけではないと思いなおし、もう一度海の仕事に戻りました。そのとき、私が勤めた社団法人では、鹿児島の桜島水族館を「オーシャンパーク」と改称し、新設するプロジェクトの委託事業を受けていました。そのメンバーに選ばれたのです。再び鹿児島に移って、そこに3年くらいいました。

しかし潜水学校を卒業して5年間は、プロダイバーとして深海潜水する仕事はほとんどできなかったのです。桜島では施設の管理者という肩書で、施設の運営や船の乗組員の面倒を見るなど、管理業務が主でした。そんな中でも潜水が好きだったので、暇があれば海に潜っていました。それだけは忘れませんでした。

深海潜水の仕事を頼まれ、思いがけず会社を設立

そんなとき、潜水学校の同級生が東京で就職して潜水の仕事をしていました。彼に相談したら「一緒にやらないか」と誘われ、念願の潜水の仕事を始めることになったのです。最初は海洋土木の仕事です。一人親方で、フリーの潜水士として腕だけで雇われ働き、仕事が終わればまた次の現場へと移る、日本中潜水バッグを担いで渡り鳥のように転々としながら仕事をやっていました。今、考えればそのおかげで日本各地の水中に潜っていろいろな仕事を経験することができました。

ある日、知り合いから「渋谷さんは深い所に潜水して仕事するんだよね。実は自分の知っているサルベージ会社で深い所の潜水作業をやるようになったけれど、やり方がわからないから、相談に乗ってくれと言われているんだ」と持ちかけられました。新潟沖の油田が水深80メートルくらいの所にあり、そこの井戸の杭を調べるという仕事を、新橋のある会社が受注していたのです。

私は学校で専門的に深海潜水を勉強していましたし、研究所でもそれなりの知識と経験を持っていましたから、そのサルベージ会社に行って水深の深い場合の装備や潜水方法を伝授しました。説明しながら一通りやり方を紙に書いて、会社を後にしようとしたら、部長さんが飛んできて、「いやあ、この仕事は渋谷さんが請け負ってくれないかな?」と頼まれ、私は思わず「いいですよ」と返事をしてしまいました。 でも私は、その頃自分の会社はつくっていませんでした。その後すぐ新橋の本屋に飛び込んで「会社のつくり方」のノウハウ本を慌てて買ったのです。(笑)。仕事が始まるまで1カ月しかありませんから、その間に有限会社をつくって、道具もなかったので知り合いのメーカーさんに頼みこみ、全部売り掛けで何百万円もかけて揃えました。こうして図らずも会社を起こす羽目になったのです。

その仕事は4カ月くらいかかりましたが、それが終わると会社としてどこに営業に行けばいいかわかりません。いろいろな人の紹介で会社を回り、「どんな仕事でもやりますから」と仕事の選り好みをせず仕事をやるようにしていました。潜水の仕事が好きだったので、一所懸命取り組みましたし、いま考えると、それはお客さんが喜ぶ仕事のやり方だったのだと思います。喜ばれるうちに次の仕事につながって、そのうちに社員が一人入り、二人入り。最初のうち新入社員は何もできませんから、日曜日には江の島に行って潜水を教え、そして現場に連れて行きながら育てるという毎日でした。そのうちに、二人、三人と潜水の仕事ができる社員が増えていきました。

だんだんと仕事が舞い込むようになりました。関東近辺が多く、特に同業の人たちに重宝がられました。なぜなら既存の潜水会社では、陸上から空気を送り込むヘルメット式の古い潜水法を行っており、新しい方式でなければできない仕事を受注すると、自分たちではできないので困っていたのです。しかし私は新しい方式の潜水方法をできたので、そういう仕事が来ると私に仕事の依頼がかかってきました。引っ張りだこになり、その頃はどんどん会社にも人が増えた時期です。

“叱咤叱咤”の指導に社員が離反。裏切に遭い初めて自分の弱さが見えた

叱咤激励という言葉がありますが、私の場合は部下に対して“叱咤叱咤”でした。何かあると社員を厳しく叱り飛ばす、だから社員が参ってしまって、次から次へと辞めていきました。辞めるのも普通に辞表を出すのではなく、夜逃げするんですから(笑)。怖くて私に「辞めます」と言えなかったのでしょう。初めのうちは「辞めた奴は根性が足りない」と自分で強がっていました。社員が辞めたときは悔しくて、俺がこれだけやってやってるのに……と思っていたのです。

31歳で独立し、6年ほどたった頃、一番心にグサッと刺さった事件が起きます。私が手塩にかけて育てた番頭格の社員が、会社の乗っ取りをしたことです。

仕事もどんどん入り、社員も増えてきた頃でした。出張から帰ってきたら、うちの社員も取引先も全部乗っ取られていたのです。番頭格の社員が自分の会社をつくっていて、他の社員も全部そこの会社の従業員になっていました。なおかつ、私の事務所を使って何食わぬ顔で私の事務所を使い、私の客先の仕事を、私の会社の社員を使って仕事をしていました。私はそれに1カ月あまり気づかず、机を並べて仕事をしていたのです。

ある日、私が事務所で一人で残って仕事をしていたときに取引先の社長が訪ねて来て、「渋谷さん、○○さんは渋谷さんのところの社員ですよね」と聞いてきたので「ウチの社員に対してなんでそんなこと聞くんだ?」と不思議に思ったところ、その社長は「実は今、その○○さんがこういう名刺を持ってきて、うちの仕事をやっているんだけど」と言って、彼の別会社の名刺を見せてくれたのです。

それを見て、私はビックリして口が利けませんでした。その社長が帰った後、私は事務所の床にへなへなと座り込みました。社員が何食わぬ顔で私を騙していたのですから。騙された自分が情けなく、そのぶざまさと、彼に対する腹立たしさが心の中で、ゴーゴーと入り混じり、どうしたらよいか頭が真っ白になってしまいました。

その社員が事務所に帰ったときに「お前、わかっているんだろうな」と言うのがやっとでした。彼はばれたか、という表情を見せ、社員を引き連れて出ていきました。何もかも消えました。ショックという言葉を超えて、腰が抜けてたようになって、当時は3カ月間くらい痴呆のようになっていました。私のプライドと世間体をズタズタにした、相手のことがいつまでも思い浮かんできて許せなかったのです。

それまで私は「俺についてこい」というスタイルでガンガン仕事していました。それが自分の持ち味だと思っていました。私にはコネも何もなかったから、仕事を受注するためにそうせざるを得ない面もありました。それを社員にも押しつけてそれやれ、それやれとビシバシうるさく言ってたのです。その代わり仕事はどんなこともきちんとやっていましたから、お客さんには信用がありました。でも社員はたまったものじゃなかったと思います。

乗っ取りに遭って、初めて私は自分の弱さが見えてきました。自分が放心状態になるなんて思ったこともないわけです。そういう人を見たら「あの人は人生の落ちこぼれだ」と思っていましたから。だいたいのんびり散歩してる人を見ているだけで、あいつはダメだ、人生を捨てていると思っていたくらいです(笑)。しかし、その事があってから私の中のなにかが変わりました。初めて何かにすがりつきたいような気持になっていたのです。

それまではハウツー本ばかり読んでいたのが、精神的なことを書いた本を手に取るようになってきました。もともと本を読むのが好きだったし、気持ちを和らげるようなものを探し求めるようになったのです。何とかこのくやしい気持ち、みじめな気持ちを納めないとどうしようもなかったからでした。

いろんな本を読んだり話を聞いたり、するうちにだんだんわかってきたのは「結構俺も弱いんだよな」ということ。初めて自分の弱さを自分で認められるようになったのです。そうなるまで4~5年かかりましたかね。ある日突然180度変わるというよりも、少し変わってはまた戻ってを繰り返したように思います。

ダイビングを本格的に教える「塾」を始める

そのような時期に、隣近所の人が「渋谷さんは潜水の仕事をしているんですよね。だったらダイビングを教えていただけますか」と言われて、隣近所の人たちに少しずつダイビングを教え始めるようになりました。しかし一般の人にダイビングを教えるにはインストラクターの資格が要るといわれ、資格を取得し、それから本格的に「水中塾」という名前の教室を始めたのです。

私はダイビングに対する思い入れがありました。ダイビングスクールというスタイルで教えることに抵抗があったのです。当時の私には遊びで海に潜ることが、信じられないことのようにおもえたのです。私にとって海に潜るのは、何かものを獲るか、仕事をして稼ぐ場所。それをわざわざお金を払って遊びで潜ることが理解できませんでしたし、それをサービスとして教えるダイビングスクールもなんか軽々しい感じがしてイヤだったのです。海の中に潜ることは、もっと神聖なものであり、厳粛なものなんだという思いが心の底にあったからです。私が目指しているのは「塾」のような教室でした。始めたのは20年以上前のことです。31歳で独立して、10年ほどがたっていました。

※渋谷さんの大きな挫折を契機にして始まった「水中塾」。次回はその活動内容について、たっぷりとお話をしていただきます。お楽しみに。