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人材教育の最前線で活躍する、ユニークなキャリアを持った講師の方々をご紹介するシリーズ連載企画。今回からは、5人目のゲストとして、平本あきおさんのインタビューをお届けします。
貧しい少年時代から、アメリカ留学を経て、メンタルコーチとして大活躍されるに至るまでの平本さんの歩みには、人生をたくましく生きるためのヒントが、たくさん詰まっています。ご一読いただき、ぜひ今後の人生の参考にしていただければと思います。(インタビュアー・根本英明)
平本あきお(ひらもとあきお)さんプロフィール
1965年、神戸生まれ。貧しい地域で生まれ育ち、中学から新聞配達やウエイターでのアルバイト。高校時代はボクシングに熱中。その後周囲の反対を押し切って上京、3浪して大学進学。東京大学大学院(専門は臨床心理)修士課程を修了し、クリニックや病院でのカウンセラーを経て、1997年渡米。シカゴの大学院(Adler School of Professional Psychology)でカウンセリング心理学修士課程修了。小学校、州立刑務所、精神科デイケアで心理カウンセリングを実施。2001年9月に帰国し、それ以来、多数の民間企業・官公庁をサポート。北京五輪・金メダリスト柔道100キロ超級石井慧選手は北京現地含め約2年間、早稲田大学ラグビー部中竹監督は、大学選手権優勝までシーズンをとおしてサポート。他、アスリートに限らず、芸能人や経営者、ビジネスパーソンの「やりたいことをみつけ実現する」ためのメンタルやピークパフォーマンスに関するコーチングをしている。公開セミナーや講演会も多数開催。専門分野:モチベーション・コミュニケーション・リーダーシップ・メンタルヘルス。
ドヤ街の子ども時代。何が幸せか考えた
神戸の新開地出身です。当時は「あしたのジョー」のドヤ街にも似た、廃れた歌舞伎町みたいな街で、私が生まれたころ位が高度成長期の歓楽街でした。肉体労働者が1日の仕事を終えて酒を飲んだり遊んだり。隣近所も貧乏。お風呂のある家は1軒くらいしかなかった。銭湯が当たり前で、刺青の人も普通に銭湯にいました。
そういう暮らしの中、子供心にも「幸せって何だろう」と考えていました。「俺は何者なんだろう」というアイデンティティにも悩みました。貧乏や差別もあって、普通ではなかったですから。11歳から新聞配達を始めて、中3のときはウェイターのアルバイトに精を出していました。
「何が幸せかな」と考えたとき、まず「お金持ちの人は幸せかな?」と思いました。こちらは時給400円前後なのに、金持ちのお客さんは5,000円位のステーキを残して帰るわけです。バイトの私たちはそれを裏でこっそり切って食べるわけですが。
しかし、そんなお金持ちでも、よくよく見ると不平不満や愚痴ばかり言う人もいる。「それなら金持ちだけが幸せちゃうな」と感じました。社会的地位があって立派なバッジをつけている方もいるけど、ウェイターには上から目線で文句を言ってくる人もいる。この人たちは社名がないと何も言えないんだろうなと思うこともあった。
大学の先生を見ても、ブツブツ何か難しいことを首から上で考えているが、何か幸せそうに見えない。頭がいいから幸せでもない。体が健康でも、夫婦げんか、親子げんかが絶えない人もいます。
子どものとき、ある雨の日、近所のおじさんが「雨降った日にも仕事せないかん。気分悪いわ!」と叫んだことがありました。雨降ったら不幸なんや、晴れたら幸せなんかな?と思うと、翌日晴れたときそのおじさんは 「こんなん晴れてんのに仕事せないかん、気分悪いわ!」と怒鳴っていた(笑)。どっちみち不幸なのです。
金でもない、社会的地位でもない、頭の良さでもない。体の健康でもなく、天気でもなく、何が幸せを決めるのか? どうやら自分の思いよう一つであることに気がつきました。雨が降れば「しっとりしてええわ」と幸せな人もいれば、雨に文句を言う人もいう。自分の心の持ちようが、幸せを左右すると思うようになりました。そして、それを研究するのが心理学ではないか、と、16歳くらいから思い始めました。それには大学に行って勉強したいと考えたのです。
考えてみたら神戸にいた16歳くらいのときから、いろんなセミナーに通っていました。心理学や怪しいスピリチュアルを含めて、とにかく真理を求める気持が強かったのです。
大学進学に失望。セミナーに通いながら学ぶ
しかし、通っていた高校は、7割がパンチパーマ、3割がアイパーの不良生徒ばかり。誰も大学に行こうと思わないし、受験勉強でもしようものなら「お前アホちゃうか、こんな勉強なんかして」と逆にバカにされる。スポーツができるかケンカが強い人間が尊敬される。学校の先生でさえもそういう目で見ていたのです。親も、「中学を出たら職業訓練学校に行って手に職付ける人間が偉いねん。お前大学に行って何になるつもりや!人間の屑にしかならんやないか」とさんざん言われました。
高校卒業した時点の偏差値は37。I, My, Meも分からなかった。友達に馬鹿にされ親に反対され、頭はアホやしお金はない。何もない状況でも「心理学を勉強したい」の一念で、必死でバイトしながら3浪して中央大学に入学しました。
皆の反対を押し切って必死の思いで勉強して大学に進学し、意気込んでました。こちらははりきって「生きる意味を語ろうや!」と同級生に語りかけても、「ええわ」と嫌がられる。「何でや」と問うと「俺は別に心理学に来たかったわけじゃない。本当は経済学部に行きたかったけど、たまたまこっちのほうが偏差値がよかったからここにいる・・・」と言う無気力な同級生もいました。だったら勝手に経済行きいや! とガッカリしました。授業でも自分が期待していた内容がなかなか学べなかったので、結局バイトしたお金は外部のセミナーや研修にかけていました。
青春期はそれなりに充実して暮らしていました。しかし本当に自分がやりたいのは、心理学ではなく、健康な人がより健康になれる、科学的で体系的な手法だったのですね。もしくは、普通の人がより充実できる科学的で体系的な手法です。カウンセリングになるとどうしても、精神的に病んだ人をどう治療するかがテーマになる。それはそれで必要ですが、自分の興味はそこではなかった。
一歩間違えると怪しい宗教団体や自己啓発セミナーにつながるようなマインドコントロールも、求めていたものとは違う。やはり誰もが「なるほど」と思えないとうまくいきません。そういう手法は科学的ではなく、汎用性がないので、納得していませんでした。これだ!という手法が見つからないままアルバイトをしながら、東大大学院で臨床心理士をしていました。
頭・情熱・身体を使った3つの仕事で生計を立てる
そのころは「ホンマに生きる意味は知識じゃ得られない」と思い、体で実感したいと思って、高層ビルの窓拭きの仕事を生活の糧にしていました。体を使う仕事にやりがいを見出していました。地上何十メートルの世界で、命綱もつけないでガラスを拭く。自分は今このガラスと向き合いながら“生きている”と、実感していました。リアルな世界を知らないのに知識だけで臨床心理をしている他の東大の院生にすごく反発して「俺はこいつらと違う」という思いでした。
大学院に行ったのは、研究者になりたかったというより、先生になりたかったからです。若い人が精神的に病んでいるわけではないけれど、やりがいを見出せず悩んでいる。だからと言って鬱や不安症でもない。でも日々充実しているかというと充実していない。この連中のやりたいことを見つけるような仕事をしてあげたいとずっと思っていました。大学の先生になれば毎年若い人が入学するから、ゼミでガチンコで話し合って、こいつらのやりたいことを引き出したいという思いがずっとありました。
思い返せば、小さい頃から大学の先生になりたいという夢は持っていました。小学校の時は算数が得意でした。典型的な理系少年です。1学年上の問題集を解いて「自分は科学者になるんや」と小学校のときは思っていました。作文で「ノーベル賞を取る」と書いたら周りに引かれるどころか「こいつならあり得る」という雰囲気で受け取られました。小学校のときは勉強ができたんです。
今思うと、臨床心理士としてのカウンセリングは頭を使っていたんですね。そのころ専門学校でも教え始めました。講師として心理学を教え、生徒に熱い情熱で訴えかけていました。いっぽうビルの窓拭きでは肉体を使っていました。仕事では頭・体・心の情熱の3つをバランスよく使い分けていたと思います。
専門学校では心理学と言いながら、学術的なことを言っても多分生徒は誰も聞かないといわれていたので、ほとんどセミナーみたいに講義していましたね。子ども時代のワクワク、今好きなことを書き出したうえで、未来は何をしたいかを考えてもらう。やりたいことをやる期限を決めてどうするかなどを問いかけました。あるいは、男性と女性の価値観が食い違うようなゲームをさせて、30分以内にグループディスカッションをさせて順位を決めてください、と伝えます。でもこのテーマでグループの順位は決まらないんですね。順位ではなくお互いの違いを知るというセミナーです。
東京での専門学校の収入は月5~6万円、カウンセラーも4~5万円、ビルの窓拭きが10万円以上になりましたが、このようなフリーターをしながら、特に大きな問題もなく暮らしていました。
阪神大震災で母の遺体と対面
そのような生活を送る中、20代の終わりに阪神淡路大震災が起きました。その日は窓拭きのアルバイトの日でした。当日朝、テレビを見たら神戸が焼けている。電話をしても親は出ない。心配しながら、窓拭きの仕事に行きました。4日後に大阪の伯父がようやくつかまって「おかあちゃんが待ってるから早よ来い!」と言われて急いで新幹線で向かったら、3階建の建物が2階建につぶれていた。父と母は1階にいて、がれきの下で亡くなりました。父の遺体は私が来るより早くに見つかりましたが、その日「おかあちゃん上がってきたから、会うてみい」と伯父に言われて、母親の亡骸を見ました。
そのとき気が狂ったように泣いて泣いて、天地が引っ繰り返ったようにわけが分からなくなりました。しかし、待てよと。今まで俺はずっとメンタルについて心理学をやってきて、それで今おかんの死から逃げる気か、と思い返した。事実から目をそらそうとするのはいかん。「絶対よう見なあかん」と決意しておかんをじっと見ました。
2階の床に押しつぶされたおかんの顔は、血管が切れて黒くなっていたけど、表情はあって、天然パーマの髪、正月会ったときと同じチョッキとパンツを着ていた。耳を澄ませば周りから野次馬の声や救急車、パトカーのサイレンが聞こえた。触ったら冷たいおかんの感触、埃のにおいがしている。「今俺はここで起こっていることを、100%目を見開いて受け取ったる」と、決意して全身全霊でおかんを受け止めようとしたら、おかんの声がしてきた。それは幽霊が喋ったのではなく、おかんが横におったらこういうことを言うだろうなということです。
「お前何しとんや、さっさと立ち上がって後片付けせんかいな。おかんは、そんな泣いても嬉しないで」。そんな状況で、今自分にできることをやろうと、気持ちを強くしました。
震災後、伯父の叱咤で土壇場の試練を乗り越える
当時阪神地域では6000人も死者があり、神戸でも死体がどんどん上がって、母の遺体も検死のため兵庫県警に回収されました。そこで伯父に「あきちゃん、ちょっとここに座れ」と呼ばれ、倒れた冷蔵庫の上に腰かけました。てっきり慰めてくれるのかと思いました。おかんはおっちゃんの妹やけど、僕にとっては大事なおかんや。おっちゃんがなんぼ慰めてくれても、僕の悲しみは癒えへんねん…。
そんなつもりでいたら、おっちゃんは「あきちゃんなあ、あんた東京でどんな勉強して、どんな仕事してるかワシは知らん。だけど、この後片付け、3カ月や半年で終わると思うな。1年かかるか3年かかるかわからんが、残って全部お前が始末せい!」と怒鳴りだした。「お前がやらんやったら、ワシが間に弁護士入れて2度と神戸に戻ってこられんようにしたるからな」と凄むのです。
訳も分からず「はぁ!?」という感じで、カチンと来た。頭に血が上って怒りそうになった。しかし、「よっしゃ、よう見とけ。俺が全部やったる」と思いなおしました。
本当は正直、その日東京に帰るつもりだったのです。手荷物は水1本とカロリーメイト2箱、下着の替えもありません。何の準備もないけど、おっちゃんに言われて残ったるわと思い、4カ月で後始末を全部終えました。
建物の解体や金庫の取り出し、解体の際は隣近所との法的な問題などがありました。両親は労働者向けに3畳一間の簡易アパートを営み、50人位住んでいる人がいましたので、住人が敷金を返せと申し立ててきて、自分には何もお金がないのにどうやって返せばいいのか。いろんな大儀なことがありましたが、これは俺がやるしかないと思って、本当は1~2年かかるところを最速でやりました。
最初は「親が死んだ30分後になんでおっちゃんに俺が怒られなあかんねん。ぶち殺したろか!」と、腹が煮えくり返りました。でも後になって考えたら、伯父に感謝しなければいけなかった。おっちゃんが怒ってくれなかったら、可哀そうな“みなしご”として、甘ちゃんのまま東京に戻っていた。
うちの伯父と母は、小さいときに両親が亡くなったのですごく苦労していました。伯父は裸一貫で工場を経営して苦労してきている分、甘い考えでは世の中やっていけないということを伝えたかったのだと思います。多分めそめそ泣いて帰ったとしても、だれも自分の面倒みる人はいないので。私の兄貴は身障者一級で、知能障害もあり、家の始末は無理だったから、それを伝えたかったのでしょう。
これを読んでいる皆さんにも共通するかもしれませんが、上司や社長、お客さん、親などから、理不尽な怒られ方をするときがあったと思います。何で怒られないといけないのか、俺が一体何をしたというのか。何年かしてみると、実はそれは自分がすごく成長できるきっかけだったりすることがあります。私は後になって伯父にすごく感謝しました。
そうこうしているうちに30歳になり、充実している生活ではあったものの、本当にこれでいいのだろうかと思い、決断のときを迎えました。アメリカで勉強しようと思い立ったのです。アメリカでは60年代に人間性解放運動が盛んになり、人間の可能性を探究する運動の発祥の地であることが頭の中にあった。これを機会にアメリカに行ってみたいなと思い、シカゴへ出発しました。(つづく)
※次回は、平本さんがカウンセラーとしての修業を積んだ、アメリカ留学時代のお話を中心に語っていただきます。お楽しみに。
